【3.11】支援の歪み
2011年3月11日に起こった東日本大震災から、11年が経ちました。
死者数15900人、行方不明者数2523人という、未曽有の大災害でした。関連死を含めると、その数はさらに多くなります。
二度とこのようなことは起こってほしくはありませんが、自然災害である以上そうもいきません。いつかはわかりませんが、今後必ず同規模やそれ以上の自然災害が起こるのは確実といえます。
その時が来た時に、私たちがどのように対応できるかは、東日本大震災から何を学んだかによります。様々なことを美化せず事実を受け入れてこそ、学ぶことが可能になります。
しかし、震災に関しては様々なことが美化されています。特に支援に関しては、真実が歪められていると感じます。
長期的な支援は自立を妨げる
震災が起こった直後の急性期や初期においては、命を救うために支援が必須になります。
しかし、その後も支援を続けることは、自立を妨げる結果になることがほとんどです。人は、与えられ続けると
- やってもらうことが当たり前
となってしまいます。支援を受けることを当然の権利のように思ってしまうのです。
これは東日本大震災の被災者の人たちだけでなく、支援やボランティアを受ける発展途上国などにおいても同様です。医療や介護を見ても、同じことになっています。
人間の自然な性質なのです。つまり、災害の支援や医療や介護などにおいて、長期的な支援は自立を妨げる害になるということです。
支援はダラダラといつまでも続けるのではなく、いかに短期的に終わらせて自立に向かって進み始めるかが重要なのです。
(※ただし、孤児に対する支援などのように、長期的な支援が必要な場合もあります。)
支援の大半は無意味
また、そもそも論として、支援やボランティアの大半は無意味に近いものがあります。何か役に立っている気になっているのは、単なる自己満足にすぎないことが、ほとんどです。
仕方のないことでもあるのですが、被災者のニーズに対して応えようとしても、どうしてもタイムラグも発生してしまいます。被災地などの状況というのは、刻一刻と変化しますし、行政などの対応によって大きく左右されます。
「何か力になりたい」と思うことは決して悪いことではないのですが、結果として無意味どころか邪魔をするだけのことが多々あるのです。
千羽鶴を大量に送り付けることなどは、その典型的な例です。単なる迷惑でしかありません。
ですから、災害時の支援を地元の人たちのみに限定するような方法をとる自治体も増えてきています。
支援の本当の効果
支援やボランティアは、受ける側に対しては無意味なだけでなく害にもなりかねませんが、実は他の効果が存在します。
それは
- 支援する側が、精神的安定を得られる
ということです。
人は
- 自分より不幸だったり厳しい状況の人に接すると、精神が安定する
ということが分かっています。
他人の不幸は蜜の味、というやつです。このことは、科学的に証明されている事実です。
無意識のことがほとんどでしょうが、支援の根底にあるのはこれなのです。
つまり
- 大半の支援は相手のためではなく、自分の満足と精神的安定のため
というわけです。
しかもやっていることが無意味だったり害だったり、自立を妨げたりするのです。歪んでいますよね。
支援やボランティアというものは、無条件に美化される傾向にありますが、このような面も持っていることを認識する必要があるのではないでしょうか。
支援やボランティアすべてを否定するつもりはありませんが、正しい認識と論理的な思考を取り入れるべきであるのは確実だと思います。
3.11から学ぶべきこと
甚大な犠牲を払った東日本大震災から、私たちはたくさんのことを学ばなくてはなりません。
日本は世界でも屈指の自然災害大国です。自然が相手である以上、それを止めることは不可能ですから、起こった時の被害をいかに最小化するかを考えなくてはなりません。
絶対に忘れてはいけないのが
- 「想定外」は起こる
ということです。
例えば地震に対する研究なども、本格的に始まってまだ100年やそこらです。地球の歴史から見れば、一瞬に過ぎません。
その程度のデータで、地球の動向を正確に予測することなど不可能です。
つまり、人間の想定できる範囲は限られているのです。東日本大震災からもわかる通り、震災が起こった時には重機をどれだけ投入できるかが鍵になります。
残念ながら、重機のない個人の力は無力に等しいのです。
ですから、ボランティアなどをどれだけ投入しても、重機を投入できなければ無意味なのです。
重機を投入できるのは、自衛隊や地元の建設業者です。個人では無理ですよね。
特に重要なのが、地元の建設業者です。自衛隊が被災地に入るにも、その道を確保できるのは地元の建設業者です。
また、建設業者は治水工事など災害発生の予防にも大きな役割を果たします。災害大国日本において、建設業者は人々の安全を担保するために必要な公的な存在でもあるのです。
しかし、日本の建設業者は平成の間、減少の一途をたどってきました。平成のはじめと比べて、現在では建設業者の数は2割以上減っています。
これは
- ・緊縮財政
- ・社会が談合を徹底的に糾弾した
ということなどによります。緊縮財政により公共事業の予算は削られ、インフラを維持できなくなっています。
また必要悪とも言える談合を、くだらない正義感で糾弾した結果、多くの建設業者が潰れました。
その結果
- 治水工事など、災害対策の公共事業が十分に行われていない
という現状に陥ったわけです。河川の氾濫などが多いのは、温暖化による異常気象と言われていますが、完全に嘘です。
例えば台風などは、現在よりも40~50年前の方がはるかに大きなものが発生しています。水害などが多い原因は、公共事業の不足です。
東日本大震災によって、公共事業の重要さや建設業者の必要性が、はっきり分かったはずです。それなのに、日本はそのことを学ばずに「異常気象」などと馬鹿げたことを言い続けているわけです。
まとめ
- ・長期的支援は自立を妨げる
- ・支援やボランティアの大半は、無意味
- ・支援やボランティアは、する側の自己満足と精神安定のため
- ・建設業者を増やして充実させることは、災害対策の基本
何よりも大切なのは、被災者やボランティアなどを無駄に美化するのではなく、現実を直視して対策を立てることです。事実から目をそらしてはいけません。
原発にしてもそうです。原発の賛否は別として、原発は安全だと国や学者も明言してきました。
原発の危険を訴えていた識者たちは、表舞台から消されていきましたよね。現実的に、そのようなことが起こっているのです。
国もメディアも学者も、自分の利益のためなら真実を話すことはしません。災害と異常気象のことも同様です。
いい加減、そのようなことを理解する必要があります。
美化するのは、何かを隠したりごまかしたりするための手段であることが、非常に多いのです。「3.11を忘れない」とよく言いますが、忘れないというのは、同情したり覚えているということではありません。
- 教訓にして学び、今後に繋げる
ということが「忘れない」の意味でなくてはなりません。悲惨な出来事を美談のようにして真実を隠すか、教訓にして今後に繋げるかは、私たち次第なのです。