能力主義という差別

社会

今回は、能力主義と差別についての話です。

まず差別とは

  • 特定の集団や属性に属する個人に対して、その属性を理由にして特別な扱いをする行為

のことを言います。

優遇か冷遇かは立場によって異なりますが、冷遇の方が注目されることが多いですよね。

現代社会において、差別は排除されるべきものとされています。「差別しても良い」と公言する人は少ないでしょう。「人種差別」や「性的差別」などは、あってはならないとされている差別の典型例ですね。

また、家柄や親の資産・収入などが人生に大きな影響を与えてしまう社会も、差別社会であるとされます。いわゆる階級主義ですね。

それに対して「能力主義(実力主義)」は、差別のない平等な評価方法だと考えている人が多くいます。そしてその能力主義がベースになって評価するものが、「成果主義」です。

終身雇用や年功序列が崩壊しつつある現在、日本においてもアメリカ型の成果主義が取り入れられ始めています。今後は、その流れは一層加速することは確実でしょう。

  • 頑張った人が報われる

というやつです。

努力して成果を出せば評価され、成果を出せなければ努力が足りないというわけです。努力は、人種や性別や生まれなどには関係なく、自分次第だから平等で差別がないという考え方ですね。

しかし、これは大きな間違いであることが、科学的にも証明されています。実際には、能力主義は平等でも何でもなく、差別でしかないのです。

能力は運次第

実力主義が差別ではないとするのであれば、一つ大きな前提が必要になります。

それは

  • 誰でも頑張れば、同じ成果を出せる

ということです。

つまりは、誰でも努力次第で同じ成果を出すことができる、ということですね。努力による能力獲得は、生まれながらに決まっているものではなく、自分次第で変えられるというわけです。

実は、これが完全に間違いなのです。

  • ・知的能力
  • ・努力できる能力

これらは、遺伝的要素が非常に大きい事が分かっています。つまり、能力が高さも努力できるかも、遺伝的に決まっているということです。

要は、生まれながらにして決まっている運ゲーなわけです。多くの人は、このことを理解していません。

身体能力が大きく関わるスポーツなどに関しては、どれだけ努力しても誰もがオリンピックに出たりプロになれたりするわけでないことは、ほとんどの人が理解しています。生まれつきの能力で大部分決まってしまいますよね。

しかし知的能力に関しては、多くの人は「頑張ればできる」という精神論を振りかざします。実際には、能力の高さも努力できるかも遺伝的にほぼ決まっているのにです。

そして、能力主義の行きつくところは、差別社会です。

  • ・出来ない奴は、怠けているから自己責任
  • ・結果を出している人は、頑張った対価を受けるべき

というような感じですよね。

本当は運ゲーなんですけどね。

能力主義による差別の恐ろしいところは、言い訳が出来ないことにあります。

能力や努力が遺伝だと理解していない人が多いため、「できないのは自分が悪い」というレッテルを貼られ、言い訳ができないのです。

仮に階級主義による差別であれば、「生まれが貧乏だったから・・・」という言い訳を他者にも自分にもできますが、能力主義では言い訳出来ずに追い込まれてしまいます。逃げ道がないわけです。

要するに、能力主義社会は階級主義社会と同様に差別社会なのですが、差別社会であることを多くの人が理解していないのです。その分、階級主義よりも厳しい社会とも言えるかもしれませんね。

誰もが差別をしている

このように能力主義社会は差別社会なわけですが、だからと言って一概に能力主義が悪いというわけでもありません。

能力主義も階級主義も、それぞれメリットもあればデメリットもあります。

では

  • どのような社会形態が差別をなくすために好ましいのか

ということですが、これはそもそもの前提が間違っています。

端的に言えば

  • 世の中から差別をなくすことは不可能

です。

さらに言えば

  • 全ての人が差別をしている

ということになります。

確かに差別は良いことではないでしょうが、これが現実です。差別は無くなりません。理由は、多かれ少なかれ誰もが差別をして生きているからです。

例えば、誰でも付き合ったり結婚したりする人を、ルックスや性格など自分の好みなどで選別しますよね。

手術を受けるとして、医者を選べるのであれば、上手な医者を選びますよね。

飲食店で食事をするのであれば、おいしいと思うところで食べますよね。

これらは、厳密に言えば全て差別です。相手の様々な能力などに対して、評価して選別しているわけですから。平等に扱っていませんよね。

もちろん、これらの差別は一般的にも非難されるべきことではありません。

しかし、だったらどこがラインなのでしょうか。許される差別と許されない差別の境界線は、どこなのでしょうか。

そして、何をもって差別とするのでしょうか。

例えば部活で

  • ・あまり練習はしないけれど、能力は抜群に高い生徒
  • ・能力は低いけれど、誰よりも一生懸命練習する生徒

このどちらかしか試合に出せない場合、どちらを出すのが正解でしょうか。

「能力という生まれ持った才能」で差別するのか、もしくは「努力という生まれ持った才能」で差別するのかという違いだけです。

どちらを選んでも、差別しているのです。

結局のところ、明確なラインを引くことはできませんし、差別をなくすことなんてできないのです。

そしてそれが当たり前でもあります。

生きていくということは、選択の連続です。 選択をする際に、差別をすることで判断をしているわけです。

解決策①:違いを認める

差別は無くならないとしても、無くせる差別は無くした方が良いのも間違いありません。

例えばアメリカの暗黒時代のような黒人差別などは、当然無くすべきものです。

では、どのようにしたら差別をなくせるのでしょうか。

解決策の一つとしては

  • 違いを認める

ということではないでしょうか。

差別の多くは、自分や自分の考え方などとは違うものを排除するという、人間の本能から起こります。本能レベルなんですよね。

しかし、人間は理性も持ち合わせています。ですから、違うのが当たり前だという認識をすれば、無意味な差別は減るはずですし、差別だという認識も減るはずです。

例えば男女差別ですが、全く同じ能力や状況において、女性だからと言って不利にされるのは明らかに差別です。

しかし、男女は全く違う生き物です。個人個人にもよりますが、大枠で言えば男性と女性は、考え方も能力も違います。

男性の方が優れている能力もあれば、女性の方が優れている能力もあります。

男性の考え方が合う状況もあれば、女性の考え方が合う状況もあります。

それを全く同じ土俵で扱おうという「拡大しすぎた平等」は害でしかありません。 しかし、男女は全く違うのだという認識をすれば、現在のようにありとあらゆることにまで「差別だ!!」と騒ぐことは無くなるはずです。

解決策②:居場所を変える

とは言え、解決策①は自分が苦しい差別を受けている時には、全く意味を成しません。周りの人に、「違うことを理解してください」と言っても、理解・認識してくれるとは限りませんからね。

現実的に、仕事などにおいては「能力」という差別が激しくなっていくのは確実です。仕事がビジネスである以上、能力・成果によって評価が変わるのは、避けられない事実です。

社会で生きていく以上、差別され続けるということですね。ですから、差別がある前提で考える必要があります。

個人としての視点で言えば、差別が存在するのですから、冷遇の差別を受けるのではなく、優遇の差別を受けられる環境に居場所を変えるべきです。

誰もが、自分の中での得意分野と苦手分野が存在します。その中の苦手分野で評価されるのではなく、少しでも得意な分野で評価されるような環境に変えた方が良いです。

根本的解決ではありませんが、社会全体ではなく個人個人のことに限って言えば、おそらくこれが最善でしょう。差別を逆手に取れば良いのです。

まとめ

  • ・知的能力も努力できる能力も、遺伝的要素が大きい
  • ・能力主義社会は、差別社会
  • ・差別は誰もがしていて、なくなることはない
  • ・居場所を得意な分野にするべき

人を苦しめるような差別は極力なくした方が良いでしょうが、差別が無くなることはありません。

最も問題なのは、能力主義のように差別している認識がなく、差別を行っていることです。このような場合には、冷遇の差別を受ける側の人は、逃げ道が無くなってしまいます。

能力や努力などについて、ひたすらに根性論を振りかざすような人に差別されている場合は、一目散に逃げることをお勧めします。
勝てる場所で戦いましょう。

理念

医療の知識

記事